私と輸出管理 私は輸出管理(export control)の専門家として人生の後半をビジネス界に貢献しました。貢献したかどうかは疑問が残るところはありますが、要するに人生の糧を得るために輸出管理を勉強し、何となく生に会っていて成功できたといったことかと思っています。私はNECの無線通信事業部に所属しマイクロ波地上通信デジタル通信機器の開発、衛星通信用デジタル通信機器の開発、モバイル通信機器の開発を担当し42歳で通信技術部長に昇進し、その後45歳で技術管理部長に移りました。そのあとで本社の海外営業部の貿易審査部に転職になり輸出管理(安全保障貿易管理)に馴染むことになりました。47歳(19992年)の時でした。自分の能力からして会社経営や人事管理には向いていないことは自覚していましたので、転職されることは、ある程度の予感はありましたが、まったく経験・知識・知己のない部門のとは驚きました、一からの出直しを覚悟したものでした。 まったく初めての業務を課された訳ですから一生懸命勉強し、NECの輸出管理の立て直しに尽力しました。安全保障貿易管理とは武器輸出規制のことですが、武器本体、その部品、製造装置、関連技術を敵対国に流出するのを防ぐ仕組みのことであると理解しました。当時は冷戦下にありましたので敵対国とはソ連を初めとする共産圏諸国であり、武器の流出を防ぐのは経済的・技術的に先行している米国に率いられる自由圏諸国になります。従って輸出管理はグローバルな仕組みであり日本では経済産業省の貿易管理局が統括しています。当然のことで民間会社の協力が求められ、安全保障貿易情報センター(CISTEC)が設立されており武器に関連する製品を持つ民間会社はCISTECの委員会活動に参加することで協力を求められていました。NECは特に電子計算機、通信機器の開発・生産をしており輸出もしていたことから、真っ先に協力を求められる立場にありました。即ち電子計算機は武器開発に不可欠であり、無線通信機器は戦場に必要であり、防諜を防ぐ暗号装置と共に輸出管理では武器の一環とみなされています。私はCISTECの委員会活動では通信委員会と役務委員会(輸出管理で技術のことを役務、英語ではservice(サービス)と表現しています。)に参加しましたが早速に委員長を委嘱され委員会参加各社の取り纏めをしました。さらに当時は電子計算機が普及段階にあり、ソフトウェア(即ち電子計算機などに内蔵されるプログラムなど)については追加項目として輸出規制することになり大幅な輸出関連法令の改定が行われました。法令に改定に当たっては民間から情報提供が必要ですので役務担当の調査員が設定され、役務委員会の委員長であることから私が就任しました。調査員制度とは専門職で必要時に経済産業省に出向き技術協力を要請されます。経済産業省から辞令が出て役人として採用されますが、どんなに協力しても無給ですが国際会議などには参加することが出来ます。 NECの貿易審査室勤務は3年でしたが、NEC内部の輸出管理に尽力し、CISTECの役務委員会、通信委員会の委員長として尽力しました。貿易審査室から転職してからは無線通信事情部の技術情報部長になっています。しかしCISTECの2つの委員長職、経済産業省の調査員については個人として任命されていますので継続して委嘱されていました。 1995年には経済産業省貿易局から米国の輸出管理状況を調査してくれ、予算は支給するとの依頼があり、富士通、東芝からも委員の参加もあり日本政府派遣の調査団の団長をしています。米国の西海岸、フロリダ半島ではAT&Tなどの通信事業者や関連メーカーを訪問しました。ワシントンでは商務省、アメリカ国防衛総省(ペンタゴン)、アメリカ国家安全保障局(NSA)などの政府機関を訪問し輸出管理の実施状況を調査しました。当時のことを考えると良く行ったものだと思っています。とにかく無事に帰れることを考えていました。政府予算で調査に行きましたので調査報告書を提出し、経済産業省で報告会も開催しました。翌年1996年には同じく欧州(ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、英国)の輸出管理の調査団長をしました。通常武器輸出規制国際会議(ワッセナーアッレンジメント)がオーストラリアのウィーンでありましたので、外務省の役人として辞令が出て参加しています。 2005年2月にNECを退職し、CIAJ出向を解除されてからは宇宙航空研究開発機構(JAXA)に勤務しました。JAXAはロケット、航空機の開発、運用を手掛けていますが海外でロケットを使う気象観測とか海外との技術協力などの輸出業務は東大出の先生方が手探りで輸出許可を申請していましたが、危険な状況でした。私が招聘されて、輸出管理のための情報管理システムを構築しました。2010年にJAXAを定年退職しましたが、CISTECでは中小企業輸出管理支援事業が始まっており、短期間ではありますが通常勤務、または派遣契約等で任務に当たりました。全国各地の中小企業や大学などで輸出を考えているが輸出管理の仕組みがない会社、大学を訪問して輸出管理の仕組みを説明し、関連法令の該否判定の協力をしました。当時を回想してみると、いろいろありましたが、経営者にはなりえなかったが、共同社会に参加して多くの人たちと協調できたことは輸出管理を専業にして良かったのだと思っています。 |